「たくさん書ける」は要注意です
応募作の多くは見た目と中身がとてもよく似ています。
・1行空けでつなげられたそれぞれのブロックがどうにも短く、わずか数枚の分量しかない → 記述体力がとにかく不足している。
・会話のほとんどが心底どうでもいいセリフである → キャラの人格表現につながる生きた言葉が書けていない。
・地の文のほぼすべてが単なる背景解説(含む自分語り・回想)である → それ以外の事柄を書かないと小説にならないことが理解できていない。
言うまでもないことですが、以上の特徴を持つ作品は「小説が書かなければならないことがほぼなにも書かれていない」以外の評価を得られません。つまり、「平均以上の文章力を持つ人間なら誰でも書ける、小説に見えなくもない体裁・分量の文字列」でしかないから、一次で早々と落選するわけです。
とはいえ、傾向が顕著ということは解決策もまた単純、要は「章を設けて全体をきちんと組み立て、主要場面には最低でも20枚を費やし、そこでは一流の人間たちの生きた言葉のやりとりを構成要素とする『描写主体の場面記述』をし、工夫のない駄解説を書かなければいい」だけの話なのです。そうすれば、誰はばかることなく「自分は上位5%に位置する書き手」と主張できるようになります。
ただし――否定的接続詞の連用で恐縮ではありますが――やるべきことは単純・明快であっても、いざ実行となると「大きな困難」に直面することになるのも事実です。誰でもできる容易な書き方から一歩踏み出す、すなわち、「それまで半ば無意識に逃げてきた事柄」を書けるようにするには質的な変化(脳内への新たな回路の増設)が不可欠で、どうしても「当初は苦痛を伴う一定期間の練習過程」を経る必要があるからです。
「たくさん書ける書き方」を捨てて、「こんなんじゃ1行も書けない!」と途方にくれるような高いハードルをみずからに課さなくてはいけません。お手本にしたい作家の文体を模倣しながら、一日にわずか数枚しか絞り出せないような書き方をしてみるのです。
実際問題、それを完遂できるのは文字通りの少数派で、当オフィスがご提供できるのも「設定すべき具体的目標」「目標と現状との違い」「有効と考えられる練習方法」などごく基本的な事柄にとどまるわけですが、愚痴を言っても始まりません。こうしてご来場いただけたのも何かの縁、多くの応募作・出版ゲラを手にした結果見えてきたあれこれを、執筆の手懸かりとして、まずはお持ち帰りになってください。
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顕著な傾向が存在します
●20年前は「応募者が理解していて当然の作法」の代表が人称原則だったのですが……
「人称と視点は違う」とか「三人称は主人公目線で書かないとダメ!」など、これについては実にさまざまな主張がありますね。入門書や書き方指導サイトの数だけ異なった考え方があるという奇妙な現象は「正解」が存在しない小説ならではともいえますが、作品の構造・骨格にかかわる重要な問題であるため、応募者それぞれが自分なりの理解・実践をしないと「小説としての要件」が満たせなくなってしまいます。
当オフィスは「作者の立ち位置」というものを重視し、人称形態を以下の3つに区分しています。
・一人称
私はとても腹が立った。怒りのせいで視野が赤く染まり、殺す以外にないと決意した。
・一人称的三人称=疑似三人称(一人称の主語を「私」から「彼もしくは彼女」に換えただけのもの)
激昂した彼の視野は怒りのせいで赤く染まり、殺す以外にないと決意した。
・本格的三人称=真正三人称
彼の表情が激変した。片頬が微かに痙攣し、相手を凝視する両目に異様な光が浮かんだ。
・一人称
演劇が上演される劇場を思い浮かべてください。その舞台に立つ俳優の立場で周囲の演劇空間を書くのが一人称です。
言わずもがなではありますが、一人称の特徴はすべての地の文に主人公の主観を反映させていい点にあります。それによって口調を前面に出した個性的な文体とすることができますし、なにより「禁則」を意識しないで自由に書けるのが最大の利点でしょう。主人公が知覚できることであれば、なにをどう書いてもいいわけですものね。
ただし見落としがちな観点もあり、それは「一人称でも三人称的客観記述は必要」というものです。
一次で落選してしまう一人称作品に共通する傾向として、「こなれた一人称おしゃべりだが『他者』に対する関心・洞察は絶無」が挙げられます。これはもちろん自分にしか興味を向けられない書き手の余裕のなさに問題があるわけですが、作品の印象自体も恐ろしく貧しいものになってしまいます。同じ舞台に立つ仲間なのに、主人公以外の登場人物の外見・表情・口調の描写にいっさい目が向けられないため、彼らが内面を持たない記号としてしか存在せず、主人公の空虚な自分語りだけが聞こえてくるわけです。
平均以上の文章力を持つがゆえに陥りがちなその罠を回避する方法は、「客観記述でも対象の内面を伝えることは可能」という観点を持ち、「他者」の思惑・意図への洞察を示すことだと思います。
例えば――ものすごく旧い例で恐縮ですが――映画『踊る大捜査線』の終盤でデスクに隠した辞表をすみれさんが無言で破るシーンがありますが、その複雑な笑顔の奥に誰が存在しているのかを理解できない観客はいません。小説でもそれと同じ描き方が可能で、状況説明+行動+表情の描写という三人称的客観記述だけでも、かなりのことが伝えられます。もちろん、そこにセリフが加わるのが普通で、さらに一人称なら主人公の「彼女は○○と感じているに違いない」との洞察を付け加えることさえできるのです。表現として十分すぎるほどだとお感じにはなりませんか? そして、その洞察が的確で人間性に富んだものなら、主人公のキャラクター設定、ひいては作品そのものがとても豊かなものになり得ます。
繰り返しになりますが、「対象の内面に入り込まないと気持ちや考えは書けない」は誤りです(現状では珍しくもなくなった「複数主格一人称=次々と異なる『私』『僕』『俺』が登場する、容易には理解しがたい人称形態」が書きたくなる理由も、やはり表現力不足にあるのでしょう)。真正三人称の書き方にも通じる俳優・演出家としてのセンスは、一人称を書くうえでも必要なのだと思います。「それぞれのキャラにどんなセリフを与え、どんな口調・表情で語らせれば読者により効果的に伝えられるか」の吟味がなされていない作品は「貧しい」という理由で落選するのだと考えてください。
・疑似三人称
作者自身も舞台に上がり、ただし演技には加わらず、主演俳優の背後に影のように付き従いながら書いていく、すなわち登場人物の主観・意識を借りて記述するのが疑似三人称です。
【一般的な言い方をするなら「三人称単一視点」ということになり、劇の最初から最後まで作者が主演俳優の背後にとどまるのであればその表現でもOKといえるのですが、既刊物・応募作を問わず作者の居場所がころころ入れ替わるものが多く、それでは「単一視点」と呼べません。「三人称単一視点〈複数〉」では意味をなしませんから、ここはやはり「疑似三人称」(作者の立ち位置・視点が入れ替わるものは『複数主格疑似三人称』)と呼ぶことにします。もちろん、「疑似」という単語が否定的印象を与えるのは承知しており、当オフィスはこの書き方を「本物の三人称ではない」と考えています。主語を換えただけで三人称になるなら、誰も苦労しませんものねえ】
※注記:このテキストを書いた20年後の現在は「誰も苦労しない書き方」をされた商業小説が増加傾向にあります。詳しくは当ページの下のほうにある「なんちゃって―」をお読みください。
疑似三人称の書き方は「一人称で書いてから最後に主語を『私』から『彼(もしくは彼女)』に置換する+アルファ」です。別の言い方をすると「地の文が作中人物の主観で書かれていれば疑似三人称」ということになります。実に単純、一人称が書ければ疑似三人称を書くのも容易で、実際にこの人称スタイルの応募作・既刊物が非一人称グループの大多数――ひょっとすると95%以上――を占めます。これは、本来の意味における三人称が書ける応募者(作家)がほとんどいない現実を意味し、確率のうえでは、あなたがお書きになった三人称もその内実は一人称だと言えるのです。
書き手・読み手双方への負担が少ないのが疑似三人称の特徴で、それゆえ主流となっています。しかしその一方、適用されるルールが一人称と同じであること、つまり「主人公が知覚できることしか書けない」を忘れてしまう応募者・国産作家も多く、「この程度の基本は理解してから書いてもらわないとねえ」が正直な感想です。
舞台の外の事象は「主人公には知覚し得ない」という理由で書けません。作者は舞台上の俳優の陰にいるのですから、おのずと「わかること」の範囲も限定されるのです。同様に、主人公(もしくはその時点で憑依している俳優)以外の人物の内面を断定することもできません。人間には他人の心を読む力は備わっていないのですから。
「ひとつの作品(もしくはひとつの章)の中で内面を断定していいのは、登場人物のうちのひとり(憑依対象)だけ」を徹底してください。
総じて言えるのは、「疑似三人称を書くこと自体は容易だが、その分禁則も多い」でしょうか。一人称との違いは「主人公は語り手ではない」程度にとどまり、メリットは「一人称では違和感を誘う主人公の容姿についての記述が疑似三人称では可能になる」ことくらいなのです。この「疑似―」はいわば「背後霊形式」と定義でき、主人公の背後にぴったり密着する位置に作者がいるがゆえ主人公の内面を深く描けるが、一方で「主人公が知覚できることしか書けない=主人公が登場する場面以外は書くべきでない」という制約を受けます。
つまり、「疑似三人称で主人公以外の人物に憑依すること、すなわち複数主格には反対」が当オフィスの本音ということになります。客観記述でも十分に伝えられるのに、なぜわざわざ複数主格化し、内側からの独白的表現をしなければならないのでしょう。
しかし現実は低きに流れ、「章分け(舞台に喩えれば『暗転』ですね)すれば主人公以外の登場人物に憑依しても可」が業界の常識となっています。これは本来読者に対して受け入れがたい違和感を与える書き方で――初めてこの書き方に触れたときの感覚を思い出してみてください――そもそも、実質が一人称である疑似三人称で「複数主格」を容認すると「だったら『複数主格一人称』でもOKじゃん」に反論できなくなってしまうんですけどねえ。
登場人物の「判断」を書かないとおもしろくならない戦記ものなどでは、『南シナ海/グリニッジ標準時○月○日○○時』などの章分け以上の明確な区分を設けたうえでの「複数主格」が意味を持ちますが、一般の小説、特に応募作では、実質が一人称であることを潔く受け入れ、その制約の中で技量を示すことが大切だと思います。
※もし「複数主格疑似三人称」で応募するのなら、「誰が主人公か」だけは明確にしてください(長編の場合のみ。100枚以下の中・短編での複数主格化はたぶん不可能で、「誰が主人公だかわからない=小説としての要件を満たしていない」との判断につながります)。
・真正三人称
作者が観客席に留まり、舞台上の主人公に注目しながら全体を描いていくのが真正三人称です。例文の「彼の表情が―」でもおわかりいただけるように、立ち位置が異なることは「なにを書くか」にも決定的な違いをもたらし、基本的にすべてを外側から書くことになります。
【いわゆる「神様視点」ですが、この用語に関しては多くの人が「章分けすらせずに憑依対象を次々替える疑似三人称のこと」と誤解しているため「神様―」はもはや用語として使用不能で、ここでも「真正三人称」という妙な造語を使います】
書き方の根本は映画シナリオと同じなのだと思います。小説の文体でシナリオを書いたうえで、映画ではカメラマンや俳優の担当となる情景描写・人物表現の「肉付け」をすると真正三人称小説になります。内面をそのまま書くのではなく、セリフ・口調・表情・しぐさなどを生き生きと描写しながら「読者に推察させる、より高度な表現」を指向する書き方だと言うことができます。
ただ、この「生き生き」の部分のハードルが高く、作品世界がしっかりと見えているがゆえの確かな描写力と豊富な語彙(特に比喩にかかわるイメージ)、さらに説明さえも小説記述にしてしまえるだけの「地の文の声」がないとまっとうなものは書けません。またそれ以前に、一人称(含む疑似三人称)の主観記述に慣れてしまった応募者(含む現役国産作家)では「そもそも客観記述ができない」場合も多いようです。
しかし、読者に違和感を与えない形で「主人公が登場しない場面」を書こうとするなら、この真正三人称を会得するしかありません。登場人物に依存しない書き方といえばいいのでしょうか。つまり「素性を明かさず決して『私は』と言わない書き手の存在」という核があるため、誰が登場しているかが語り口に影響を与えないのです。誤解を恐れず表現するなら、「真正三人称は究極の一人称」となるのかもしれません。
補足しておきますが、真正三人称でも主人公の内面を断定することはできます。「○○と彼(もしくは彼女)は思った」は完全にOKで、主人公以外に対しても「まるで○○と言いたげに」が使えます。さらに、作品冒頭と大きな転換点の直後には「作者自身の自己主張」さえ、ある程度は認められるのです。難しい書き方ですが、登場人物に束縛されないという点で、作者の自由度はむしろ大きいとさえいえます(この段落における主張の根拠は、すべて「名匠ロス・トーマスがそういう書き方をしているから」です)。
読者の側に一定以上の読解力を要求する点で出来のいい真正三人称ほど一見地味な印象になるリスクがあり、選考にあたる人間の適性を信用しきれないのなら――消費者=読者をばかにして「どうせ理解されない、売れないのだから真正三人称など書いても無駄」とうそぶく、あるいは真正三人称の存在自体を知らない編集者がいるのは事実で、そんな人間が「授賞作以外は読むのが苦痛だった」と選考委員に言わせるような低レベル作を最終選考に残したりするのでしょうねえ――応募作には不適と言うこともできます。しかし、真の作家力が問われる書き方なのは否定しようがなく、本当に実力をつけたいとお考えなら「カメラワーク(地の文での情景描写)+セリフ(会話)+俳優の演技(地の文での人物描写)+音楽(地の文での抑制された内面描写)」の4つの要素のみで成立する「ナレーション=モノローグに頼らない普通の映画の語法」と同等である真正三人称の会得をめざしてみてください。一度「距離感覚」を身につけられれば、それ以降はあらゆる人称形態を自在に、伸び伸びと書けるようになるはずです。
・箇条書きはお勧めできません
ほぼすべての段落が1行で収まる文字数の体裁、つまり句点を入れたらすぐに改行してしまう書き方が「箇条書き」です。
この書き方がラノベ以外にも広がった理由のひとつは、「枚数を水増しできるから」だと思います。20字×20行で100枚の文字数でも、1行40字でプリントすれば編集部への申告枚数を(理屈の上では)2倍にまで水増しすることができます(原稿用紙体裁でなら規定枚数以内に収まる作品が応募要項指定の印字体裁にすると換算枚数大オーバーとなる現象の理由は「改行があまりに多い=箇条書きだから」なのです)。
また一方では、「国語体力が極端に低下した現代の消費者はすかすかの箇条書きを好む」という需要もあるのかもしれません。文字がびっしりと書き込まれた高密度の文体は敬遠されるのでしょう。事実この箇条書き体裁の作品が受賞してしまうこともあり、選考上の不利にはつながらないとも言えます。しかし、「記述体力と技量の鍛錬」の見地からは絶対にお勧めできません。箇条書きは「ひとつの段落の中での文意の流れ」を構築する努力をしなくても書けてしまうため経験値の蓄積にならず、結局のところ、いくら書いても本物の記述力獲得につながらないからです。
応募者の眼前には「国内ルールでたたかうことを潔しとするか否か」の選択肢が存在しています。
『日本人は低身長(=未曾有の出版不況で本が売れない。なにより書き手も消費者も低レベル)だから、国内で試合をするときはバレーボールのネットの高さを50センチ下げよう(=原則や日本語の正確さなんかどうでもいいから、とにかく売れそうなもの、消費者の大多数を占める愚衆が好む内容・体裁の作品を書いてよこせ)』。
それに迎合して「一時期出版社を儲けさせてすぐに消えていく小説のようなものライター」になるのか、それとも国際ルールの高いネット越しに堂々と打ち合える本物の作家をめざすのか……。
いろいろな捉え方ができる箇条書きですが、ひとつだけ確かなのは「誇りを持った作家は絶対にこの書き方をしない」です。書店で手に取った小説本が箇条書きなら、たとえ芥川賞受賞作であっても「読むに値しないごみ」と判断してかまいません。
●人物描写が足りません
下読みをしていた頃に意外だったのが「男性応募者の過半数、女性の場合ほぼ100%が登場人物(主人公)の外見・容姿を描かない」というものでした。男性については単純に「不注意、観点不足」と考えてもいいのかもしれませんが、女性の極端な数字(主人公自身を描くのが難しい一人称を除いても100%なのです)は安易に片づけられないように思います。
女性応募者のほとんどが同じ女性(少女)を主人公とし、服装ではそこそこの描写が見られるのに、なぜか容姿だけは語られないのです。そこには共通する心理が存在するのかもしれません。しかし、読者にそれぞれの登場人物を識別してもらうには外見=人物の質感の提示が不可欠で、特に主人公には興味を誘うに足る容姿を与える必要があります。どのような美人なのかを簡潔、かつ効果的に描くには高い筆力を要し、それこそが応募者の腕の見せどころでもあるのです。
「自分の分身を書いているうちは選考通過できない。読者の度肝を抜くような魅力的キャラを」と考えてみてください。さらに、大転換をという意味で男性を主人公とする作品の執筆をお勧めします。女性応募者による作品の類似性は多項目に及び、下読みには「事実上すべてが同じ作品」に見えるほどなのです。「自動的に一次落選となる同じ顔をした応募作の長い列」から抜け出すには、書き方そのものを変えるしかありません。異質な男性を主人公とすることで、「客観視点」と「登場人物の心理に対する洞察力」が養えるはずです。
●描くべきは説明でなく物語です
上で述べた「同じ顔」を具体的にご説明しますね。
・主人公のキャラ設定が「ごく普通の女性(少女)」とされ、作者が主人公をかばう姿勢が見られること。物語の牽引役としてはあまりに力不足で、重大な事態に直面すると「もうなにも考えたくない!」と現実逃避しがち。
・会話体の分量が少なく、作品の大部分を主観記述(主人公の気持ち・考え・回想=説明)が占めていること。
・ひとつの会話(セリフ)に何行もの主観記述が付随していること。それを読み終わるころには前のセリフがわからなくなってしまい、結果として「やりとり・場面」が成立しない。
以上の特徴を持った作品は「焦点が定まらず集中できない」という理由でひどく読みづらく、下読みに「ああ、またこれか」とため息をつかせてしまう作風といえます(「ふと○○は思い出した」が頻出する作品はたぶん選考通過できません)。そして、読みやすさ、すなわち読者の都合をまったく考慮していないことこそが、「自動的に一次落選」と申し上げる理由です。
ただ、傾向が顕著ということは、それを外しさえすればいいともいえ、例えば以下のような書き方に変更すれば、「この書き手は違う」との印象を与えられると思います。
・主人公に積極的なキャラクターを与え、しっかりと行動させる(傍観者にしない)。
・地の文での主な記述対象を主観から客観(行動・表情・しぐさなどの描写)に切り替える。
・合間に描写をはさみながら会話体を一定回数連続させ、「ひとつのやりとり、ひとつの場面」を成立させる。
・どうしても必要、かつ分量のある説明や主観記述は、章(もしくは1行空けで区分されたブロック)の冒頭か末尾だけで書くようにする(解説と場面記述との混在を避ける)。
これだけでも作品の「顔」はがらりと変わり、落胆とともに読まれることはなくなります。さらに「800字、なかには400字の指定さえあるあらすじを容易に書けるだけの、強固なストーリー骨格」を与え、気の利いたセリフまわしでセンスをアピールし、人物の質感を簡潔かつ効果的に描写できれば、言うまでもなく「一次確実二次も射程内」ということになります。
以上が女性応募者における顕著な傾向ですが、一方の男性については歴史ものからカフカ風までと作品分野に幅があり、「描写すべき事柄を説明してしまう致命的な瑕疵」以外の目立つ傾向は特に見つけられません。
ただ、日本語自体に問題を抱えた応募者は男性の側に集中していて、別の言い方をすると、女性応募者の多くは文章力だけを見れば一次通過レベルなのです。対象を絞った「傾向と対策」を上でお伝えしたのもそれが理由です。意識を転換しさえすれば大化けもあり得るわけですから。しかし、日本語レベルの低い一部の応募者に対しては、残念ながら「日本語の基礎の再確認を」としか申し上げられないのが現実です。
最初は誰もが「自分に小説など書けるんだろうか」と不安いっぱいで臨むもので、その過程はとても苦しく、書き上げられた喜びは実際に経験したお客さまにしかわからない宝と言えます。でも、それだけでは不十分なのです。読者の立場で、客観的に、「絶望力」をもって作品を眺められるかどうかが、選考通過の分岐点であるように思います。
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数百本のゲラを請け負って見えてきたもの
●一人称作品を忌避する版元が複数あるらしいです
新刊が出る度にサイン本を送ってくださる元お客さまがいらっしゃいます。毎回楽しみに拝読しているのですが、あるときふと違和感を覚えて「○○先生、これってもしかして?」と尋ねてみたところ、「実は――」という流れで見出しの話題になったわけなのですね(しかし、元お客さまを「先生」と呼べるのは心底嬉しいものです)。
なんでも、「一人称作は売れない」という統計があるらしく、「三人称で書いてくれ」と言ってくる版元が複数あるとのことでした。
もちろん、出版社が言う三人称とは疑似三人称のことです。一人称も疑似三人称も実質は一人称なのですから、それによって売れる数が違うというのは、にわかには理解しがたい話です。
実際、作業者のところに回ってくるゲラにも一人称作が普通にあるわけで、上記の「統計」は特定の版元の間だけで出回った与太話のたぐいなのではないか――などと考えています。
●「なんちゃって三人称」が増えています
与太話では済まないのが「なんちゃって三人称」、要は「主語は『鈴木は』だが、地の文で『〜してくれた』などもろ一人称≠フ表現が多用される、なんとも珍妙な商業小説」のことです。
「一人称で書いてから最後に主語を私→鈴木に置換する+アルファ」と上で述べていますが、その「+アルファ」の部分、「一人称と疑似三人称は『ほぼ』同じだが、全く同じというわけではなく、境界線が存在する」を全く知覚・理解できない作家/編集/読者が増加中というのが現場の肌感覚なのですね。
実際、そんな「なんちゃって―」がシリーズになってそこそこ売れている現実があるので、もはや市民権を得た書き方なのかもしれません。
作業者が「なんちゃってのゲラ」を前にしたときも、「この作品は非一人称作なのに地の文が完全に一人称になっています。これは読者の違和感を誘う書き方なので地の文をすべて書き換えるべきでは?」などとはとてもではありませんが指摘できません(仕事を失ってしまいます)。その部分は完全スルーして、整合性チェック・事実確認・誤脱字チェックだけを淡々とおこなうわけですね。
しかし、そんなものが臆面なく流通しているのは、ほかの多くの事象同様「紛うかたなき日本国の衰退・劣化」を示すものであり、「このままでは明治以来の文学/文芸が絶滅してしまう」と危機感を抱いています。
「少数でもいいからしっかりとした実力を備えた人に作家デビューしてほしい」――それが、長らく休止していたバベルの受注を再開した理由のひとつです。
●数百本の中にはとんでもないゲラも……
小説ゲラ中心であっても「小説だけ」を請け負うのは不可能で、実に多様・雑多なゲラが回ってきます。特定の個人の誹謗中傷を目的としたものや、なかには犯罪予告のようなものまで……。
そういうものがDTPを経てゲラになる原因は、多くの編集に自分が担当する書籍を読む余裕がないことにあります(書店に並ぶ前に内容を精読したのは校正者だけという例も)。
「なんちゃって―」とは異なり、この種のゲラは版元に不利益を与える可能性があるので、さすがに作業者たちも「いささかリスキーな内容なのでは?」と指摘を入れます。それらのゲラがその後どうなったのかを知らされることはありませんが、仮に出版取りやめになったとしても、作業料は普通にもらえます。
興味のある方がいるかもしれないのでお知らせすると、「1文字0.4円」というのが相場的なものです。例えば40字×17行×300頁のゲラなら、20万4000×0.4=8万1600円が報酬金額になります。
まあ、「あれだけ手間をかけたのにこの金額かよ!」があるかと思えば、逆に時間単価換算で7000円を超える気前のいい版元もあったりと、相場はあってなきようなもの。作業者がいるのが実に混沌とした世界なのは間違いないです。
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オフィス・バベルとは?
●作業者・宮下耕一の価値観のみで運営されています
経歴は大手版元の関連会社勤務が16年(その最初の5年ほどは「写植」の時代でした)、下読みを経てここ15年ほどはフリーランスの校正者として小説を中心に大手版元のゲラを請け負っています。
バベルのサイトを開設したのは、もう20年!も前の2004年末、ご利用が最も多かった2007年には年間60件ほどを受注しました。
複数のお客さまがプロ・デビューされていて、なかには超メジャー賞を獲得された方もいらっしゃいます。
「無名の人間がなにを言っても相手にされないだろう」との認識から「一次通過」を掲げてはいますが、現状では「一次を確実に通過できる実力」は、そのまま「最終選考到達の可能性」を意味するようです。
※当サイトのひな形は20年前にプロに頼んで制作してもらいました。お問い合わせフォームが正常に機能しなかったり、ページ冒頭の「1次選考」を本文表記の「一次」に統一できなかったりするのは、作業者に修正できるだけのスキルがないからです。
※同様に、宮下がKindleに上げている作品の一部で「酷い誤字」が放置されているのも、「訂正のしかたがわからない」が理由です。
※Kindleでは年間に数人の方が作品を購入してくれています。「わずか数十人でも自分が書いたものをお金を払って読んでくれる人がいる」という点では「作業者は作家でもあります!」と主張してもいいのかもしれませんね(笑)。
※Kindleには欧文表記の作品も掲載しています。理屈づけとしては「真正三人称で身体感覚をどこまで描けるか試した」になりますが、実際のところは単なる「ばかエロ」です(笑)。「これ書いたやつは頭がおかしい」と思われるかもしれませんので、特に女性の方は「絶対に」お読みにならないでください(笑)。
●バベルに頼むとプロットを盗まれる?
殺伐とした現状を考えると、そのようにお感じになったとしても猜疑心が強いことにはならないと思います。お客さまのそんな不安を拭うために、当オフィスでは「実際の物品(CD-ROM)をご納品」のスタイルを採っています。つまり、作品原稿をデータでお送りいただいても、お客さまのお手許に「バベルが作業した」という明白な証拠が残るようにします。その証拠こそが抑止力(バーニーがマーゴに差し出したレクター博士のマスクといったところでしょうか)とお考えください。
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※レンタルオフィス利用を取りやめたため住所・電話番号の表示ができなくなりましたが、コレクト便契約にはヤマト運輸担当者による現況確認(当オフィスのような個人事業の場合は自宅訪問)が必須であることをお伝えいたします。当方が不正を働いた場合は、ヤマト運輸→捜査機関の経路で迅速な追及が可能です。
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